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2016謹賀新年 市原千明
我が家の建て替え物語
                    
横川の釜飯の空容器                                      
 *両親が亡くなったのを機会に55歳にして初のマイホーム建築を企てた。今住んでいるところを更地にして、仮住まいを経て新居に住む計画。なので今、家にある物を整理処分しなければならない。これが実に困難を極める。なぜなら、我が家は築80年の母屋、築45年の我々の今住んでいる家、さらに巨大物置と化したこれまた築80年あまりの別宅(通称トトロの家)の3軒がある。これを同時に解体しなければならない。まずは母屋にあるものを兄弟一族みんなで陽の目に晒す。出るわ出るわ、母が編んだセーター、父が教員だった頃(約40年前)の備忘録、全国各地のおみやげ・絵はがき・民芸品にパンフレット、横川の釜飯の空容器。もう少し奥を探れば出てくるのは「サーベル」。これって明治の物?と思う間もなく、その奥からは脇差しと裃の入った箱。明治維新を越えた品々。母方の祖母のご先祖様が加賀藩の武士だったのでそこが出所であろう。掛け軸、碁盤、日本人形に不思議な人形、教育勅語に絵巻物。今上天皇ご成婚・東京オリンピックに大阪万博、その時々の新聞や雑誌。どこかの景品でもらったプラスチック製品、広告マッチに算盤、筆記用具など。
 我が家だけで「近代庶民博物館」ができそうな勢いである、冗談抜きで。

買った途端に物はゴミ
 ここで、多くの人は一つのテレビ番組を思い浮かべる。「なんでも鑑定団」である。ご多分に漏れず、我が家でもちょいと顔なじみの骨董品屋さんに来てもらって査定をしてもらった。結果は部屋中のもの全てまとめて45000円。「お宝」などという物は滅多にないからこそ成り立つTV番組ということが分かった。そして私は悟った。
「ものは買った途端にゴミになる」
これから30年間生きるとして、そこで使わない物は捨てる。まず、親・祖父母・ご先祖様のものは捨てやすい。着物を中心とした「もの」の数々。でも中には江戸時代の手妻(手品)の本などという物も出てくる。古い絵葉書も面白い。こういう自分の琴線にふれるものだけはとっておく。中には有名ブランドのソーサーや思い出という付加価値のついた物もある。兄と姉も自分のお気に入りの物があれば適宜自分の物にする。いわゆる「形見分け」である。

捨てる捨てる捨てる
それが終わると第2ステージは自分の物。小学校の時にもらった年賀状。落語やロックの録音されたカセットテープは高校時代。ひょうきん族や落語のビデオテープは大学時代。様々なものをまとめて捨てる。生まれて初めての捨てる快感にひたる。
買って一度も見ていなかった「シルクドソレイユ」のVTR数本だって捨てる。値段を見ると未練が残るのでさっさと捨てる。タモリが深夜番組のパーソナリティをしていた若い頃出した本・・・これはとっておく。「家を建てるというのは生活スタイルのリセットである」とどこかで誰かが言っていた。むべなるかな。  (2015.3.25)
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# by fusigigatanosii | 2015-12-27 21:34
岡大介 11月2日 春歌の会
11月2日に名古屋で岡大介さんのホームコンサートをします。

その岡大介さんが今日の朝日新聞
Be on Saturday 「サザエさんをさがして」
に取り上げられています。


●11/2(日)名古屋・吹上「秘・春歌と演歌と宴歌」
場所:名古屋市内某所(民家)
18:00開場 18:30開演
料金:3500円(1飲物、唄本、秘お土産付き)
申込み問合せ:09078506931(17:00~22:00)
※完全予約制 定員20名 
出演:岡大介(歌とカンカラ三線)
解説:平沢源

【すべての問合せ】
~カンカラ一本どこへでも!~
Tel:07050127290
taisuke@dk.pdx.ne.jp

岡大介のお酒のめのめブログ
http://blog.livedoor.jp/kankarasanshin/archives/55607013.html
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# by fusigigatanosii | 2014-10-18 12:07
ポロロッカ
ポロロッカ
                     
南米大陸のアマゾン川は、6000㎞強で世界最大級の河川である。この川は高低差が極めて小さく、河口から 1600 km 遡っても32m、3,800 km 遡っても80 m しかない。ゆったりとゆったりと川は河口に向かって流れている。
しかし大潮(満月・新月)の時は、月の引力が川の水に作用し河口から逆流する。これを〈ポロロッカ〉という。現地の言葉で〈大騒音〉という意味らしい。特にこの地方の雨季である3月は水量も多く、600kmの内陸にも洪水や海水の氾濫による甚大な被害がもたらされる場合がある。
 私は1995年から1998年までブラジルで生活をしていた。この迫力は是非みんなにも見てもらいたいものだ。
って実は、このポロロッカ本物は見たことない。何しろブラジルはでかい。日本の国土の23倍の面積。私の住んでいたサンパウロとアマゾンの最も近い河口の都市ベレンで、飛行機で3時間半かかる。おいそれとは見られない自然現象だろうと思う。


この不快感は何だ?
さて、去年(2012年)の今頃、喉から胃にかけて、何だか不快感を覚えて医者に行った。自宅から自転車で行ける距離にある〈横山胃腸科〉は朝食を摂っていなければ、予約なしで胃の検査がしてもらえる。とりあえず今回は〈胃カメラ〉で検査をすることになった。しばらく待って、検査室へ行き、喉に麻酔薬をスプレーされる。薬が効いてきた頃合をみてベットに横に寝かされる。
 先端がLEDライトでピカピカ光っている黒いチューブ。「これが胃カメラか」と思うまもなく口の中に挿入される。喉には麻酔が施されているのだが、それよりも強力に「オエッ!」とえずく。胃カメラのチューブが体内にどんどん挿入されていくのもわかって余計気持ち悪い。「オエッオエッ」して口からは唾液がたれ放題。目には涙がたまってきた。そばにいる看護師さんが背中をなぜてくれる。胃カメラは情け容赦なく体内に侵入している。たくさん写真を撮っているのだろう。
 「もう少しで終わりますから」という看護師さんの声だけにすがって泣きながら、よだれをたらしながらひたすら耐える50歳を過ぎた私の図は外から見たら多分滑稽な姿だろう。

 逆流性食道炎
切ない思いをした胃カメラ体験を終えて、しばらくすると診察室に呼ばれた。ご年配のドクターは、撮りたての私の胃の中の写真をみながら「逆流性食道炎ですね」とのたまう。癌ではなかったらしい。胃の中は強力な〈胃酸〉が満ちており、食べたものを消化する。その胃酸が逆流して食道に炎症を起こすという。確かに食道の辺りが〈胸やけ〉のような鈍い痛みがあったので、さもありなんと言ったところだ。何種類かの薬をもらって帰宅し、連れ合いに一部始終を語る。胃カメラを初めて飲んで苦しかったところは少々オーバーに。ところが連れ合いが申すには、
「あんた、ブラジルでも胃カメラ飲んだじゃない」と。
そういえばブラジルで仕事をしているとき急に胃に激痛が走り、医者に行って胃カメラを飲んで検査をしたことがあったのを思い出した。
 あのときは、そんなに苦しかった覚えはない。あまりに胃が痛かったおかげで胃カメラのことはすっ飛んでいたのだろうか?そのときに撮ってもらった写真は日本に持ち帰っているのでどこかにあるはずだ。そのときは〈急性胃炎〉であった。
歳をとると病気も色々体験できる。

ということで〈逆流・ブラジル・胃カメラ〉の三題話つながり。

 それから
それから、からだのメインテナンスをぼちぼち考えつつ生活をしている。胃カメラは定期的に飲む羽目になった。だいたい1年に1回。横山胃腸科は名古屋でも胃腸の病にかけては有名な病院で様々な設備が整っている。
先日その2回目があった。鼻から入れる胃カメラもあるというのでそれを頼もうとしたら「負担は少ないが、鼻の粘膜を傷つけることもある。カメラが小さいのでその分、映像から得られる情報も少なくなる」という。迷っていたら「口からのカメラで、少し細いものもある」とのこと。先回飲んで泣いた太いものも含めた3種類の中から選ぶことができるという。ならば折衷案のような〈口からのちょっと細め〉にしよう。
 確かに先回の物に比べて「オエッ」も涙腺刺激量も少ない。めでたしめでた。
主治医の先生と一緒に胃カメラの映像を見ながら解説してもらう。逆流性食道炎そのものは完治しないらしい。が、悪くもなっていないそうで、めでたしめでたし。

 1枚100円
その映像が面白いので「デジカメに撮っていいですか?」と尋ねたらOKという。
何枚か撮っていたら、近くにいた看護師さんが「1枚100円でプリントアウトできますよ」といってくれた。ドクターに頼んだら、「あまりに久しぶりすぎて設定がわからない」といって他の人を呼んだ。どうやらこういう写真をほしがる人はまれらしい。「・・・プロパティをクリックして、印刷機を**に指定して・・・云々」
 こうして、自分の胃の中の写真を入手することが出来た。
そういえば、自分が高校生のとき開業医の息子の藤野くんは自分の頭のレントゲン写真を下敷きにして使っていて羨ましかった。今回の写真はパウチして下敷きとして使うのもいいかもしれない。                  (2013.11.7)
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# by fusigigatanosii | 2013-11-25 23:34
銀婚式の日に〈プロ〉について考える

銀婚式に
「プロの技」について考える

                       
1988年2月11日は結婚記念日。今年2013年で銀婚式となった。
 ちょうど3連休なので何をしようかと策を練った。ひとつは写真館へ行って大道芸をする衣装で写真を撮ろう。「遺影」にするものよいかもしれない、なんてちょっと考えつつ。ついでに夫婦の写真も撮ろう。もう一つは市内の有名なフレンチレストランでディナーを(柄にもなく)しよう。ハレの日の演出は決まった。
早速、レストランと写真館に予約を入れる

ラ・グランターブル ドゥ キタムラ
地下鉄から歩いて10分ほどの住宅地の中にある〈ラ・グランターブル ドゥ キタムラ〉(どんな意味なんだろう?)

待合室で少し待ってご案内。「トイレはよろしいですか?」さりげなく聞いてくる。席を案内されてすわる。
メニューはその日の食材でかわる。今日は
   お口取り  キッシュ
   冷野菜   カナダ産・オマール海老のサラダ仕立て 
2分30秒の食感
         “潮風をいっぱい浴びて育った”熊本県産・塩トマトに
          オマール海老のタルタルを忍ばせて
   温野菜   北海道産・帆立貝のソテーと
            伊勢湾産・鱚のフリチュールいろいろな茸のカプチーノソース
   お魚料理 長崎沖から届いた新鮮魚・羽太のポワレ     
          浜松産・ブロッコリーニを添えてソース・ブールブラン
  メイン料理  鹿児島県産・特選牛フィレ肉のステーキ
         可愛らしい野菜のパリジェンヌをご一緒に
   デザート  本日の冷たいデザート 3種
         キタムラ特製デザート
         食後のお飲み物と小菓子 

 ボール状のかわいらしいパンは5種類ぐらい。ワインリストは見てもさっぱりわからないのでグラスワインの赤。からっぽになった頃おかわりを尋ねられたのでお願いする。デザートはワゴンいっぱい、20種類以上のものの中から好きなものを何品か選ぶとそれをお皿に盛り合わせて運んできてくれる。
お料理に細かく味の説明をするほど食通ではないのでもどかしいが、とても繊細で深い味わい。見た目も素敵だったし何品も出てきて満足感と満腹感でいっぱいになる。

 デザート前には「今日は銀婚式だそうで、おめでとうございます」といって小さなケーキがおみやげにプレゼントされた。お店で出ているパンも袋に詰めて帰り際にいただけた。にこやかな笑顔に送り出されて庭園風の出口を後にした。お値段の張る料理は美味しくて当たり前、そう思っている。しかしここはプロとしての技を堪能できた。お値段とのコストパフォーマンスを考えても◎であった。いい心持ちで二人で地下鉄に乗った。

 翌日は写真館へ行く 
はじめに自分のイベントで使うための写真を撮ってもらう。手の上で地球ゴマを回している写真。結構すぐに撮影が終わってあっけなかった。もう1ポーズ撮って、今度は夫婦の写真。これも写真館にしてはポーズ数が少ないなと思っているうちに終了。デジタルなので、すぐに写真の選択ができる。ところが夫婦の写真は今一つ気に入るものがない。やはり撮影した枚数が少ないのでこういうことになる。まあ妥協して選択のうえ帰宅した。

 前日のキタムラのプロ意識に比べどうにも写真館はやっつけ仕事に思える。自分が学校で子どもの写真を撮るときだって「もっとたくさん撮ってその中から時間をかけて選ぶよな」とか思える。〈あなたの笑顔ずっと大切にしたいから〉なんていうキャッチフレーズが薄っぺらく見えてくる。その場でちゃんと「この中に気に入る写真はないです」といえばよかった、もやもやしたまま日が過ぎた。
 やはり電話してみよう、キャンセルできるものならしたい。そう思って1週間後に電話した。

「先日写真を撮ってもらった受付番号**の市原ですが、キャンセルできないかと思ってお電話したんですが」
「はいかしこまりました」
なんとまあ、あっさりとキャンセルができてしまった。あまりのあっけなさにこちらがびっくりするくらい。特に理由も聞かれない。
もちろん聞かれたらちゃんと話すつもりだったのだが。まあそれならそれでいい、そう思っていたらそれから30分ぐらいして、その写真館から電話があった。「写真の4500円はキャンセルできますが撮影代5000円はキャンセルできないのですがよろしいですか」と言ってきた。「まあ規定ならお支払いはしますが、理由はお聞きにならないのですか?」と言って問わず語り。撮影の枚数が以前撮った個人でやっていた写真館に比べてとても少なかったことなどを話すと「そういうことなら全額の払い戻しをします」ということになった。


 〈プロ〉とは何だろうか?
 ちゃんとその場で思ったことを言わなかった私がこのもめ事の原因を作っている。しかし、撮影する枚数の少なさはプロとしての写真館としてはいかがなものかとも思う。我々は卓越した腕を期待してプロの写真館に行く。素人モデルだからこそ山ほど撮って一緒に選択するのにもおつきあいしてもらいたい。そこに価値観を見いだすのである。そうでなければデジカメ全盛のこのご時勢、わざわざ写真館に行く意味はない。
 たかだか素人の記念写真、たくさん撮ったって迷う時間が増えるだけ、なんていう意識があるのではないかと勘ぐりたくもなる。

「プロ」としての気持ちの入れ方の二通りを目の当たりにして学んだ2日間であった。自分も「プロ」として後ろ指をさされぬ仕事をしてゆきたい、と思う今日この頃である
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# by fusigigatanosii | 2013-02-17 20:24
小沢昭一師と私(1)
第1部 小沢昭一師と私   
  
筋金入りの小沢昭一師ファン
私は筋金入りの小沢昭一師ファンだ。どれ位ファンかというと、ファンというカテゴリーには入れて欲しくない程のファンなのである。おそらく著作はほとんど持っている。古くは雑誌「芸能東西(新しい芸能研究室)」堅いところでは「大衆芸能資料集成(三一書房)」に「放浪芸雑録(白水社)」。放送大学の講義ビデオにたくさんのLP・CD。
 一番最初に「この人面白そうだな」と思ったのは多分小学校3年生ぐらいの時。ネットで調べてもはっきりわからないのだが、NHK水曜7時30分の番組。視聴者が発明した品物をスタジオに持ち込み熱く語る。それにコメントを言ったり視聴者に質問したりするのを若き日の小沢師がやっていたように記憶している。「発明」も好きだった私はこの番組が大好きだった。(はっきりしない記憶なので全くお門違いの可能性もある)
 野坂昭如・永六輔・小沢昭一の「中年御三家」が結成されたのは私が中学生ぐらいの時。そのとき名古屋でもコンサートがあって、何故か風吹ジュンとのコラボだった。当時彼女のファンだったので、このコンサートに行きたいとねだったのだが、母親からの許可はもらえなかった。行っていたら、きっと中年御三家の歌も記憶に残っていたに違いない。これはナマ小沢昭一師とのニアミス体験。

中学になり落語好きになったのは11歳離れた兄の影響。昭和40年代後半、ラジオでは毎日のように落語が流れていた。それはNHKも民放も問わなかった。それを片っ端から聞いて録音もした。この時期にたくさんの落語を知ったのは後々までの財産になった。高校ではプログレッシブロックにハマったので少し日本の芸能はお休み。
 大学時代は、時間もあるのでよく落語会に出かけた。この当時は桂枝雀師の全盛期。その他にも小三治師、馬生師などなど、どの落語会も楽しかった。大学の落語研究会にも顔を出し、部員にもなった。その一方、名古屋の下町大須で10月にある「大須大道町人祭り」の面白さに圧倒され、大道芸にも傾倒し始めた。30年ほど前のことだ。当時の大道芸は明るくハッピーなイメージではなかった。蛇の薬売り・薬草売りといった一癖もふた癖もあろうかという人たちが多かった。ちょっと別世界のような人々に1年1回会えるのがとても楽しみだった。小沢師の言葉を借りれば「食うためにやっている芸」という雰囲気の人たちに畏敬の念を持った。
大学を卒業し、社会人になっても成仏できない落研メンバーと「落語の花道」なる素人落語の会を年1回夏休みに始めた。事前にみんなで集まって顔付けやネタの調整をする。2013年で24回目である。私は落語をしない(できない)。いつも色物担当である。和物の芸が好きなので「のぞきからくり・阿呆陀羅経・立ち絵紙芝居」などなどを毎回の高座にかける。自分でネタを練り大道具や小道具も作る。そのとき欠かせないは小沢師が出された「日本の放浪芸」他の資料や音源である。

 芝居も好きになった。中でも井上ひさしさんの「こまつ座」が一番自分の感性にあっていた。小沢師の芝居を初めて見たのは「国語事件殺人辞典」だった。
 そして晩年の小沢師の傑作「唐来参和(とうらいさんな)」の構成や語りに唸った。
 その後「唄が唄いたいのよ」とあちこちで吹聴され、自ら「老謡」と命名されたCDを出されたり「唄って語って 僕のハーモニカ昭和史」という舞台を作り上げられた。 この舞台が東京であると聞き早速出かけた。しかしその数日後名古屋でもあると知り「何だ全国ツアーだったのか」と思い、名古屋のチケットも入手した。1週間に2度同じ舞台をみた。そしてまた感銘した。ほんのちょっとの「いい間違い」のようなものも実は全く筋書き通りであったり、その一方名古屋でするときは名古屋のことが織り交ぜてあったりしたのを目のあたりしたからだ。

小沢師の生の舞台
数えあげてみると生で小沢師の舞台などにふれたのは15回ほどであった。
その中から思い出深いものを列挙しておこう

 生涯で一番緊張した瞬間
「韓国・インド・隅田川」という本で「名古屋で公演があるときはいつも〈勇ちゃん〉という寿司屋に寄る」という記述を見つけた。私は唐来参和の舞台が終わった後、仲間と3人でその店を見つけて門をくぐった。すると小沢師がいないばかりか、寿司の値段も書いていない。当時20代だった私にとってこれはかなりの驚異だ。ドギマギしながら「2万円」っていわれたらどうしようと思いながら「初めてなので何か適当にお願いします」と大将に注文した。なかなか食べた気がしない。しばらくの後、入り口のとびらが、からからっと開いて公演が終わった小沢師が入ってきた。すいとカウンターに座る。「今日は泊まり?」「ああ」。大将と二言三言言葉を交わす。あとは黙って大将のにぎった寿司を口に運んでいる。私の想像でスタッフと一緒に大騒ぎでもしていたらそばによって「お疲れさまでした」とかいって近寄ろうと思っていたのだが、全く雰囲気が違う。明らかに「人を寄せ付けないぞ」というオーラを出している。
 それでもわざわざ待ち伏せ(!?)までしたので意を決して話しかける。「今日の舞台見せていただきました。とても楽しかったです」「ああそれはありがとう」。たったそれだけの会話だったがこんなに緊張したのは後にも先にもないくらいにガチガチになった。もちろんそれは「値段の書いてない寿司屋」のせいではない。ちなみに寿司屋の払いは3000円だったように思う。大将が私たちの様子を見てお安くあげてくれたのかもしれない。

博物館明治村、村長就任
明治村の三代目村長に小沢師が就任したのは2004年3月のこと。その就任披露式典が華やかに開催された。小沢師ゆかりの「小熊写真館」を訪ねる小沢村長さんご一行様。すかさず、傍に近寄ってサインをねだる。持っていったのは小沢師が40代の頃出されたLPレコード。
「ずいぶん、お古いものをお持ちですね」
「はいずっと昔からのファンです」
まがりなりのも小沢師の方から私に話しかけてくれた記念すべき時であった。


 明治村村長その2同じく明治村。小沢師は村長になってから度々明治村に来られ講演をされた。
2011年9月のこと。朝早くからこのためにだけに明治村に行き会場であるザビエル天主堂の前で待つ。当然のごとく一番乗り。開場され最前列中央に陣取る。手にはノートと筆記用具持参。小沢師の講演が始まる。
「長生きするには唄を唄うのがよろしい。今日は私の長生きにためにどんどん唄います」そんな内容。講演内容をメモる私に小沢師が
「アノ、さっきから私の話をメモしていらっしゃる方がいらっしゃいますが、そんな書き残すほどの話をするわけじゃありません」
といじってくれた。実は、こういうことをすればきっといじってくれるに違いないという私の「作戦」。してやったり!なのである。退場されるときに「いじってくれてありがとうございます!」と思わず声をかけたくなったがちょっとタイミングを逸したためそれはできなかった。

二夜連続の講演会
2009年12月8日「小沢昭一さんのトークライブ」9日「桂文我極彩色高座賑ゲスト 随談 小沢昭一」という会が二夜連続、東京であったのでチケットをとった。一夜目は最後にハーモニカ演奏があって、お客さんが拍手喝采。それに対して小沢師のセリフ
「ナニ、拍手ばっかりしても、アンコールの声はちっともありゃしない」
お客さんは笑いとともにアンコールをねだる。
翌日ほとんど同じ話の流れの中ハーモニカ演奏が始まる。曲の終了とともに、ここぞとばかり私は声を張り上げる
「もう一丁!」
舞台から「ニヤリ」とこちらの方に視線をむけて予定通りのアンコールに応えてくれた。曲は「丘を越えて」だったかな?それは覚えていない。

私の長年の夢そんな私の長年の夢は小沢師に私の事を知ってもらいたいということだった。できることなら名前ややっていることを知ってもらい、さらにさらにできることなら弟子になりたいというほどの傾倒のしかたであった。とりあえずは2ショットの写真を撮ってもらえることが第一の目標であった。

立ち絵紙芝居「猿飛佐助の化物退治」

 「・・・ところが私たちより一時代前、つまり私たちの親父の代になりますと、紙芝居に対するイメージが違うようですね。我々が見た紙芝居は紙に描いてある絵が、話の進行につれて次々に引き抜かれるというものでありましたが、その前の紙芝居は、いえ私はそれを知っている年齢じゃありません、・・・加太こうじ説によりますと、人物の絵を描いた紙を竹の棒の先につけて、で、絵は裏表に描いてあって、話につれてそれを裏へ返したり、別の絵と取り換えたりするものでありました。」

小沢師はこんな記述を1974年出版の本に書かれている(日本の放浪芸 番町書房)。実は私、この古い時代の「立ち絵紙芝居」をとある方からお借りしてレプリカを持っている。そして古式ゆかしき台詞回しを練習してあちこちで演じている。
そこで、このネタを持って東京の「ヘブンアーティスト」というものに応募したことがある。別に東京の路上で大道芸をするライセンスが欲しかったわけではない。このイベントの審査委員長が小沢昭一師なのだ。小沢師にこれを見てもらいたいだけのために紙芝居道具一式を携えて新幹線に乗った。
 東京都庁広場で「立ち絵紙芝居~猿飛佐助の化け物退治~」を演じる。しかし、審査員席に小沢師の姿はなかった。なんという事だろう!。テレビ局の関係者らしき人が「出演しませんか」と声をかけてきたが、そんなつもりはないのでお断りを入れる。むなしく名古屋まで帰ってきた。そうそう、そのままではつまらないので池袋の芸術劇場前広場でもゲリラ的に立ち絵を酔った勢いでやった。結構たくさんの人が見てくれた。それから新幹線に乗った。


 何とか、2ショットの写真を撮りたい、お話がしたいという私の夢はなかなか実現しないまま月日は流れてゆく。
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# by fusigigatanosii | 2012-12-29 15:55
   

私は科学の香りのするオモチャをたくさん集めております。私はそれを「不思議が楽しいオモチャ」と命名しました。ここではそれにまつわる話題を取り上げています。
by fusigigatanosii
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